元人民解放軍兵士山辺悠喜子

2018-8-27 来源:本站原创 浏览次数:

山辺悠喜子さんは普通の日本人女性だが、山辺さんと中国、そして中国の軍隊、中国の人々との間には、特別で、そして不思議な関係がある。山辺さんは中国の人民解放軍に加わっていたことがあるからだ。

12歳で海を渡り中国へ

1941年、わずか12歳だった山辺さんは母親に連れられ、遼寧省本溪市に住む父親の元へとやってきた。当時山辺さんの父親は本溪にある日本の炭鉱会社で働いていた。中国に来るまで、山辺さんは中国で当時繰り広げられていた抗日戦争についてよく知らなかった。山辺さんはなんと言っても当時わずか12歳で、まだ子供にすぎなかったからだ。中国の地を踏んだ後、周囲でさまざまな出来事が起こり、山辺さんはようやく興味を抱くようになっていった。

山辺さんは日本人が大勢の前で中国人を打ったり罵ったりするのをよく見かけた。ここは中国なのに、日本人はどうしてこんなに威張っているんだろう?中国の労働者はどうしてこんなに貧しいんだろう?どうして日本人は中国人を思うまま打ったり罵ったりするんだろう?山辺さんは次々と湧いてくる疑問に納得のいく答えを出すことができず、父親に聞いてみた。父親の答えはたった一言だった。「彼らが中国人だからだよ」。この答えを聞いて、山辺さんはますます当惑してしまった。納得も理解もできないままに、1945年8月15日を迎えた。

人生を変えた一つの鍋

1945年12月、山辺さんは遼寧省本溪市で東北民主連合軍に加わった。「その年、私はまだ16歳でした」。山辺さんは流暢な中国語で記者に語った。「実を言うと、国民党の軍隊も共産党の軍隊も、どちらも東北の私の家に来ました。ではなぜ私が人民解放軍に加わることにしたかというと、それは料理を作る鍋と関係があるのです……」。

「国民党の軍隊は私の家の前を通る時、母に鍋を借りに来ました。軍隊が立ち去る時には返すという約束でしたが、鍋は壊され、軍隊もそのまま行ってしまいました。その後、共産党の部隊がやって来て、若い兵士が母に鍋を借りに来ました。この兵士の着ていた服はぼろぼろで、鍋はきっと返ってこないだろうと考えた母は、家で一番古い鍋を貸しました。一週間ちょっとして、兵士が鍋を返しに来ました。兵士は『ありがとうございました』と言って踵を返すと、すぐに走り去って行きました。母が鍋蓋を開けて見てみると、鍋の中にはニンジンが3本入っていました。当時の苦しい条件下で、人民解放軍の兵士たちは自分の食糧を切り詰めて私たちに分けてくれたのです。私たち家族はみなとても感動しました。そして父は私にこう言いました。『お前はこういう軍隊に入りなさい!』そうして、私は人民解放軍に加わったのです」。

「当時、戦場の環境は非常に劣悪で、常に生と死の試練に直面せねばなりませんでしたが、戦友たちは苦楽を共にし、共に働き、厚い友情で結ばれていました。眠くなったり疲れたりした時には、『三大紀律八項注意』や『団結は力』などの歌を一緒に歌いました。これらの歌は私を励まし、教え導き、私は革命の道を歩む上で絶えず成長し、進歩することができました。私はもうすぐ80歳になりますが、こうした歌を歌うたびにまるで人民解放軍の軍隊の中にいるような気持ちになります」。

あっと言う間に過ぎた8年の軍隊生活

実のところ、軍隊に入った当初、山辺さんはうまく順応できたわけではなかった。それまで簡単な医療衛生知識を習ったことはあったが、それは書物の上のことにすぎず、「臨床」経験はまったくなかったからだ。すぐに仕事をこなすために、山辺さんは長征に参加したことのある女性看護師長や周りの経験ある医療看護員に教えを請うことにした。自分が身につけた後は、今度は山辺さんが現地の女性たちにそれを教えた。

戦いが終わるたびに、多くの負傷者が出て、病床や医療看護員が不足した。山辺さんたちは負傷者に簡単な包帯の処置をすると、現地の農民の家に負傷者を預けた。実際のところ、農民のほうも豊かだったわけではなく、家にはふとんが一組、横になれるオンドルも一つしかなかったが、農民はそんな中でも負傷者の看護や世話を引き受けてくれた。農民も同じ兵士であり、軍隊の兵士も農民兵士も互いに「兄弟姉妹」と呼び合うような親密な関係だったのだ。農民たちは普段からよく軍隊にやって来て、軍を手伝って掃除をしたり、水を汲んだり、食事の支度をしたりしていた。苦い作業ではあったが、農民たちはとても喜んでいた。同じように、秋の収穫期には、今度は軍隊のほうが農民と一緒に畑に出て、農作業を手伝った。

最初は、山辺さんはこうした状況をとても不思議に思っていた。山辺さんには日本の軍隊を恨む気持ちがあったからだ。中国の軍隊と一般の人々とがなぜこんな風に一つになれるのかが、山辺さんには分からなかった。それがある日、一人で「三大紀律八項注意」を真剣に読んでいるうちに、山辺さんは突然そのわけが分かったのだ。軍隊の幹部はよくこんなふうに訓戒を与えていた。「我々の軍隊はとても小さく、民衆の助けがなければ何も出来ず、戦いにも勝利することはできない。民衆が望まないことをし、三大紀律に反したら、非常に厳しい処分を受けることになる」。この時、山辺さんはあの時の兵士がなぜきれいに洗った鍋を返すことができたのかがようやく分かったのだった。

解放戦争が始まると、山辺さんは軍隊とともに移動した。山辺さんが所属していた軍隊は本溪から広州へと向かった。途中、山辺さんは中国の農民を始めとする一般民衆がどれほど人民解放軍を支持しているのかをその目で目撃した。軍隊が行くところではどこでも、山辺さんは熱烈な歓迎を受けた。もともとは数カ月で家に帰れると思っていたが、軍隊では十分に食べることもでき、生活も楽しかったので、時間はあっという間に過ぎていった。中国が解放された後、上層部はようやく山辺さんたちを復員させることにした。1953年3月、8年間もの間中国の軍隊に加わっていた山辺さんは、ようやく日本へと向かう船に乗ったのだった。

帰国後も中日民間友好交流を推進

日本に帰った後、山辺さんは中国での経験を忘れることはなかった。それどころか、山辺さんはこの特殊な経歴の一こま一こまをしばしば思い出した。かつて、山辺さんは日本の侵略者が中国の人々に対して行ったひどい犯罪行為を実際にその目で目撃した。日本は戦争に負けたが、戦争が遺した問題はその後長い間解決されず、日本国内でこの歴史の真相を知る人は多くはなかった。そこで山辺さんは仕事を辞め、あちこちをまわって資料を集め、抗日戦争期の中国人捕虜強制労働の問題、日本が中国に遺棄した化学兵器の問題、細菌戦問題や慰安婦問題についての研究に没頭した。数十年にわたって、山辺さんは疲れを知ることなく、日本各地を奔走し、日本の人々に向かって歴史の真相を伝え続けた。

後に、山辺さんは仲間と一緒に「731軍隊展示実行委員会」を設立し、現在までに日本で日本軍731部隊犯罪行為の展示を数十回行っている。また、山辺さんは『日本の中国侵略と毒ガス兵器』などの本を翻訳し、日本人に中国人の被った損害について伝えている。

山辺さんは記者にこう語った。「私を育ててくれたのは中国です。中国の発展のために役立つことをするのは、私の望みでもあるのです」。

「北京週報日本語版」年12月 日

  山边悠喜子:年生于日本,年随母来到中国,与供职于辽宁本溪钢铁公司的父亲团聚。日本战败投降后,山边一家因故未能回国。当年12月,山边悠喜子响应招募,成为东北民主联军的一名护士。后跟随解放军从本溪一路南下打到广州,全程经历解放战争。年回到日本。   上世纪80年代初,山边悠喜子偶尔听说关东军部队的历史后,十分震惊,随后开始研究这段历史,并与同道成立“部队罪证展实行委员会”,在日本举行数十次部队罪行展。后该委员会改称日本ABC企划委员会,山边悠喜子任副代表,为开发和保护部队罪证遗址做了大量工作。   记者:您是什么时候开始接触部队历史的?   山边悠喜子:年,日本作家森村诚一写了一本书《恶魔的饱食》,这个作品发表后,《人民日报》有连载。那时我在长春,每天都会去邮局门前的阅报栏看。日本人会这么坏?这是真的吗?我头脑里产生了这样的想法。后来我决定去哈尔滨看看部队遗址,因为长时间住宾馆住不起,我就到黑龙江大学,一边学汉语一边研究。差不多每天坐车去,见到韩晓老师(部队罪证陈列馆原馆长),他就一点一点给我讲。那时候还是不愿相信日本人会这么坏,韩晓老师就拿出好多物品,一个一个说明。那时还有一些为服务过的劳工还活着,韩晓老师就带我直接去找他们,慢慢地我就相信这是真的了,也越来越想知道里边的情景。他还带着我和金成民去大连等地到处寻找见证人。   记者:我听金成民说他去日本对那些部队原队员进行取证时,得到过您的很多帮助,这样的取证是不是很困难?   山边悠喜子:石井四郎有过命令不让他们说,好多人都闭口不谈。只有从抚顺战犯管理所回来的几个宪兵愿意跟我们说,他们也很关心部队罪证陈列馆。后来韩晓老师和小金去日本取证,也是先找这些宪兵。   记者:听说您还在日本办了几十次的展览?   山边悠喜子:年,我们在日本开始办的展览会,韩晓老师的很多材料都拿到日本去展出,从部队建立到战败,在中国都做了哪些事情,他们怎么搞实验,在实验室怎么杀人,一张一张展览。   记者:展览顺利吗?   山边悠喜子:我们原计划在展览之前,请韩晓老师来日本讲演。日本外务省知道我们的时间安排后,故意把韩晓老师的入境签证时间往后推了几天。原定讲演时间的第二天,韩晓老师才到。   记者:参观的人多吗?有没有受到过阻挠?   山边悠喜子:来看的人很多,很热闹,日本国民反省罪恶的情绪越来越高涨。可是,右派的人还是开会,动用了所有的力量来阻挠。比如金成民到日本讲演的时候,右派的人就在外面嘎嘎嘎地叫,说这些中国人是来侮辱日本的坏人,噪音特别厉害,屋里讲演的声音都听不到。   记者:有发生直接冲突的时候吗?   山边悠喜子:有时候有,但是不太多。   记者:现在的日本年轻人,对的历史了解多少?   山边悠喜子:现在的教科书里头,的事情几乎全没有了。有的老师愿意把二战期间的一些事情告诉学生,有的大学有这样的研究俱乐部,有的学生知道一些,但这不是正式的课程。   记者:您这么多年研究宣传,有没有受到过威胁?或者遇到过危险?   山边悠喜子:没有什么危险,无所谓。我现在80多岁了,不要考虑找工作什么的,可要是像你这样的年轻人,天天宣传,那就没有工作了。好多年轻人为了自己的家庭,为了自己的生活,想做是想做,但是没办法参与。战争结束65周年了,你看日本政府,到现在也没有一句话的谢罪,不承认,这个对我们打击非常大。日本政府必须向中国人民谢罪,然后赔偿,这是应该的。日本前首相村山富市曾经到过卢沟桥,承认侵略战争。嘴上说是说了,可是说了之后有什么行动呢?什么行动也没有。很多受害者起诉过日本政府,可都是败诉。这是世界公认的一个事实,为什么还会败诉?这就奇怪了。日本政府不承认,所以司法部门也不承认。   记者:那您认为日本政府应该怎么做?   山边悠喜子:我们认为,是一种国家性犯罪,应该是日本政府首先表态,承认事实,向被害人谢罪。比如说,遗址,应该是日本政府主动反省过去,来保护这个遗址。可是日本政府一直装作不知道,什么也不承认。我作为日本人,实在是忍不住。陈列馆做得越来越好,也是给日本政府一种压力。(来源:京华时报)









































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